昭和五十年九月十四日 御理解第二十七節
「昔から、あの人は正直者じゃ、神仏の様な人じゃと云うても、段々不幸なことが重なって世間ではどういものであろうかと云う様なことがあろうが。何程人に悪事をせぬ正直者でも人が良いのと神に信心しておかげを受けるのとは別物ぞ。」
色々と御理解とみ教えを頂きますけど、この二十七節は信心しておかげを受けると云う事の、いわば特異性とでも申しますか、おかげを受けると云うことは、人の善し悪しとか、善悪とかには拘らないんだと。神信心しておかげを受けると云うことは、これは又別物だと、勿論ここではだから本当のおかげの事です。病気を治して下さいとか、金銭のお繰合わせを願いますとかと云う様なこと。
そこで私は教祖のみ教えの殆どがそうだと思うんですけれども、徳を受けて、徳を受けると云うことが信心であり神様の願いであると云う建前である。正直者とか、神様仏様の様な人じゃとか云う、と云う事になったらどういう事になるだろうか。
信心は人の良いとか悪いとかと云うこととは別物。おかげを受けると云うことは、そういう人達はなら一度み教えに触れてです、本心の玉を磨くと云うことが信心だ、日々の改まりが第一じゃと云うことに教えられて、段々神仏の様な人ではない、正直者、いわゆる正直者じゃない人達が になって仏様の様な人に段々なっていく事と云うことが云えるですね。 そこへ精進しておられるとこう思うのです。
そこでおかげを受けると云うことが、神様の方でもおかげの本質的なのが、おかげに段々変わって來るのです。
昨日は十三日会でしたが、沢山の人が集まって信心の研修を致します。午前中を内外の清掃をさせて貰うて、午後から信心の共励をさして貰うて、七、八人の方が体験発表をなさってましたが、その七、八人の方の全部の方の発表がこわい程に神様を其処に表し、又は感じておられる。
云うなれば、神様を直に感じておりますと云う発表は様々でしたけれども、そういうお話ばっかりでした。云うならば苦思的なもの、理屈ではない信心ですね。中に佐賀から空閑と云う方がお話をしておられた。こちらは息子さんが大学に行っとりますが、時々発作的に不思議な病気を起こすんです。その事が御神縁を頂いた元でございましたが、合楽にお参りをしましょうと云う必ず前日のそれが起こる。今迄こんなに近く起こらなかったのに、合楽にお参りしたくなったら、佐賀からなのですが、滅多に月に何回しか参って来ませんけれども、明日お参りしようと思うと起こる。または今度はおかげを頂いて何事もなかったと思うておると、帰った翌くる日に起こると云う。だから先生こういう事では神様を信心しろと云われてもしようごとなかごとなりますと、云い乍ら神様の働きの素晴らしさを裏付けておると云う様なお話でした。そういうて参って来ている訳です。それは信心の薄い私には分からないけれども、此処に云うならば深い で神様いつも此処で御理解を頂いとります様に親先生のお話を、とにかく只素直に受けて帰ると云うことだけに絞らなければお参り出来ない。只おかげと云うだけを目当てにしましたら、もう参ってこういう事が起こるから、参ろうと思えばこういう事が起こると云うことをお話をなさった。
これは日田の梅木さんでしたかね、奥さんが発表しとりました。もう本当に合楽に御神縁を頂く様になったら、或教会にお参りしとったんですけれども、息子達夫婦がお参りしない。それが様々な、まあ六月からこちらへお参りする様になって、お参りするようになりて自分達夫婦ではなくて、大学に行っております、大体その大学に行っとります息子の大変難儀な問題で初めて遅うに此処がもうひけて参って来たんです。もうやっぱり十一時頃だったでしょうか。それからお取次さして頂いて、そりゃ心配はいりませんよと、安心が出来る様にお願いしますと、先生こんな大事なことを心配はいらんと仰るけど、先生がそう云われて安心が出来る様にお願いするからと云わっしゃったから、帰らせて頂いたら、本当に翌くる日安心のおかげを頂いたと、お参りして来たと。それからと云うものは、もう夫婦で一生懸命お参りになるのです。息子達夫婦がお参りする様になったのも、お孫さんが本当可愛いお孫さんがおりますけれども、顔いっぱい水疱瘡の様なものが出来たんです。それで私がお神酒さんと御神米でおかげを頂けと云うてやりました。そこで御神米さんを頂き、お神酒さんを頂いた。ところが今度は体にまでいっぱい出来出した。そこでまた改めてお願いをさせて頂いて、そうですね、永い日はかかりませんでした。もう本当にすっかりおかげを頂いた訳です。それからいわば息子達夫婦もお参りする様になり、または娘婿さん達も熱心にお参りする様になり、それにかかわり合いのある人達もまた毎日お参りして來る様になり、不思議な働きが展開して、起こって来たわけですね。
まあその例を取って秋永先生がお話しとりましたがです、空閑さんが云われる、お参りをしようと思いだしたらおかげを頂かんならんのが、反対に起こったと。
はあ今日は何もなかった、今日は参っておかげを頂いたから、これでおかげを頂いたと思うて帰ると、そのお参りした明くる日にそれが起る。どんなに参っても私共の様に信心の薄い者は分からないとこう云う。
それでもやっぱり有難く受けなければならんのですかと云う。
そこでその梅山さんの例をとってです、神様はいよいよ真からのおかげを下さろうとする働き、云うならば信心を下さろうとする働き、お徳を、力を下さろうとする働きが起こったのですよと云うことです。
例えば、顔に出来ておる表面のそのかさが、体内の悪血、悪毒によって出来とるとするならばです、それが御神酒を付け出したら、体全身に広がったとこう云うのです。
だから、神様はね、もう本当に全身、体の中にある、いわばそのかさのえと云うか、その腫瘍物の元であるところの悪毒をお取り払い下さるところのその働きが始まった。そこから、もうそれこそすべすべする様な皮膚と云うですか、もう昨日おばあちゃんに当たるのですか、云ってましたが、それこそ神々しいまでに美しうなったと云うておられます。
これは皆さんも体験がある。ここでもですね、子供の時に、もういっぱい出来ものが出来てです、ああかさる医者に連れて行って、こう薬を張ったり、薬を付けたりすると一時は心持ち良くするかも知れんけども、シンからの根切れのおかげにはなりませんよ。
けどもそれを真から御神米、お神酒さんだとして、おかげを頂いて参りますとですね、もう本当に私共の子供達何人かですけれども、ニキビ一つ出来ん様にですなるのです。子供の時に真から根からお取り払いを頂いとりますからね。だから本当におかげと云うのはうわべだけ一寸膏薬張る様なおかげではなくて、真からおかげと云うおかげが始まるときには、そういう働きが起きて來るのです。いわゆる井戸は清水になるまでと云う事なんです。
だから空閑さんの場合は、もういよいよ神様がそういう、云うならばまあ業病とでも思われる様な業病がです、真からおかげを頂かせて下さる為にはです、神様に心を向けたら、又そういう事になる、又反対の事が起こって来たと云う様なです、なるそこんところを教祖はお徳を受けて行く信心の力を受けて行く。為にはそういう事がおかげであると、そういう事がおかげであると、そういう事が神乍である。又それもおかげであると云う事を様々な角度からお説きになっとるわけです。此処んところになって参りますと、人が良いのとおかげを受けるものとは全然別物、全然違って來るですね。
いよいよ云うならば、此処にあります神様の様な人じゃ、仏様の様な人じゃを目指さなければ、そういう真からのおかげ、根からのおかげにはなって来んのですね。
云うならば、信心とは本心の玉を研くものぞ。信心とは日々の改まりが第一ぞと云う信心の、いわゆる本当は本筋のところへ入って行くわけです。
私はそれ以前のところが、この二十七節には説いてあると思います。
昨日でしたか、川上さんでしたか、バスの中で示現活動をなさる。示現活動をなさる、相手もある宗教の方だったらしい。まあ討論と云うわけじゃないけれども、とにかく合楽の金光様にお参りしてご覧なさい。例えば泥棒でもおかげを頂きますよと云うお話をした。その泥棒は盗ったっちゃ良かと云うて許しなさるのですかと。泥棒がね、何処どこに泥棒に行くと云うたら、はいお取次をしましょうと云うてお取次をして下さる。そういう神様があるもんですか。ああそうそう、川上さんじゃありません、安東さんでした。
あの宣教師の方がね、勧誘ですかね、お導きに見えたんです。それで向こうの話を聞かせて頂いてです、合楽の金光様の話をしたわけなんです。
そして信心しないと罰が当たると云う様な事を云われたそうですが、この私共が頂いとる神様はね、罰をやる暇があるならおかげをやると仰る神様です。しかも願うから例え泥棒であっても、その泥棒のお取次をして下さる神様ですよ。
だから泥棒の手伝いをして下さる神様なら禄な神様じゃない、云うなら人の良いのと悪いのとは別物じゃと安東さんが云っておられるのはそのことじゃったわけです。
けれどもね、お参りをさせて頂きよりますとね、成程泥棒がある節季(年末)のいよいよ押し詰まった日に、泥棒がお願いに来た。これは大阪の玉水教会の先代の有名な話です。だから、ならお願いをするから、今度いっちょぐすっと盗って来い、その代わり今度きりぞとお取次をなさったそうです。その代わり覆面をしたり頬被りしたりするなと、堂々と入って行けと云うわけです。
まあ年末の事ですから、店では番頭さん達が締めくくりをするため部屋にいっぱい品物を出してました。蔵の中に入って整理整頓しているところに入って行きました。蔵の中に入って行った。そして、皆さん御苦労さんと言って入って行った。そしてそこにあるとは皆大きな風呂敷にいれて、もう抱えきれるだけ持って行ったと云う事です。しかも堂々と夜ですから灯提をつけてと云う話があります。けどそのことに御礼お届けをして来たのを境に泥棒を止めたと云う訳です。だから一回お願いをですね、泥棒のお取次でもなさるけれども、なら合楽にお参りして来よりましても、もうその泥棒が出来んようになる働きを頂くのですよと話しましたと、安東さん話していました。
人の良いのと悪いのと、それこそ人に悪いことをせぬどういう正直者でも、一生を云うならば清貧に甘んずると云う様な例は沢山あります。
あげな善い人がどうしてあげん難儀しなさるじゃろうかと云う人があります。だから信心しておかげを頂くのは別物であると云うところから信心に入るのです。その証拠にはお取次を頂いたらすぐ変わった事が起こって來るでしょう。
お前が改まらにゃおかげはやらん、お前が研かにゃ出来んと云うことじゃない。
そこから次の云うなら信心、信心を与えて下さろうとする、真のおかげを下さろうとする、真から根からお取り払いを下さろうとする働きすらが始まって來ると云う様なと云うことでございます。
そこで、なら皆さんの場合は、なら本心の玉を研くこと、または日々の改まりと云うことに、段々有難いそこに教えの有難さを感じて信心修行なさっておられるのですから、どうもおかげが本当のおかげになって来ない。
昨日これも十三日会にお参りして来ておった方が、永年ここで信心をしております。ところが大変おかげを頂いております様ですけれども、引き落とされて引き落とされして、云うなら堂々回り的な経済の上でも大変繁盛しておるおかげを頂いておると云うても、なからさあ手形と云うたら慌てんならん、さあ大きな金が要ると云う時にはあっちこっち借りて歩かんならんと云う様な状態を続けている訳なんです。
その方がね、お夢を頂いたと云うてお届をしてきた。親先生と秋永先生が社長さんであり重役である。それから販売主任が久富正義先生だと。そこにその素晴らしいものが陳列してあるから、ところが素晴らしい。その人が買いたいものがいっぱい出ておる訳です。それでこれは幾らですかと聞くと、百万円と云う。けども貴方が買いなさるなら五十万にしとこう。いやもう二十五万でよかですよとこう云う。だから買わせて貰おうと思うたところが、正義先生が算盤を持ってきてから、いつまでもいつまでも算盤にかかってから支払うところまで行かない。けども或用件があるから仕方がないから、そげん暇がかかるなら仕方がないから、そげん暇がかかるならばと云うてそこを出たというところを頂いた。
その奥さんと云うのが非常に買物が好きなのです。しかもね、五万十万と云うごたるとじゃないです。もう何十万ものでもです、自分が買いたいと思うものは買わにゃでけんと云う性分です。しかもこれは良いならもういらんもんでも、まけたら十でも二十でも一緒に買うて來ると云う様なそりゃもう本当にそうだなと思うです。
もうあちらに行きますとね、風呂屋の洗い桶ですね、ほらお部屋にこう積んじゃるです。安かったから買うて来たと云うわけです。
とにかく買物好きです。ですから親父がいくら働いても働いても、云うなら貯めりゃ使う。そりゃ着物でも宝石でもバサロウ持っちゃるです。それかと云うて、困っとるときに自分の着物でもパーッと賣ってくるか、宝石でも賣ろうかと云う、もう自分が買うでもんじゃから握って放そうごとないわけなんです。
そこでですね、そういう性格の人にはです、まあ安くまけたと云うので購買欲と云うですかね、買いたいと云う気持ちがパッと起こるそういう働きもある。と、云うとこれには賣ってはならないと云う働きもあると云うことです。
この辺が大変な有名なところです。改まると云うことはその位に難しい訳です。実際に必要はないけれど、まけて呉れたけん買おう、そういうときにめぐりが出て來るわけです。
だからこのめぐりを取って抑える、云うなれば心の状態が なからなければいけないです。そこで算盤ばしていつまでも答が出来ない様な、ああこれは神様が心を抑えて、神様が買うてはいけないと云われよると思わにゃいけんです。やはりめぐりと云うものは一辺引き出さにゃ分からんです。
めぐりが中にある時は分からんけど、ああこれがめぐりだなと、これがおかげの頂けん元だなと、いわば安くまけたと云うところで引っ張り出してあるわけです。そしてこれを買うてはならぬ、これがお前のおかげの頂けん元だぞと云うて、いわば算盤の方に暇どられているわけです。
そこでしゃからしか、そげん暇がいるなら買わんと云うて腹かいて出るのじゃなくて、そこに翻然として神様が買うちゃならんと云いござる、ここでめぐりのお取り払いを頂かんならんと云う働きだということを悟らなければならんのだけれども、悟らんでそこを出たと云うお知らせであった。
そして又明くる日お夢を頂いて、それはどういう事かと云うと、合楽教会に見事な大きな風呂が出来て、それに水がいっぱいに張ってある。何と素晴らしいものだろうかと思うておったらね、ひょっと下を見たところが汚いものがいっぱい沈んでおる。
これじゃ誰でん入ろうごとなかろうと云うところであった。何十年例えば、昨日の御理解、昨日のお夢、今日のお夢続いてのお夢であった。
あんた達が何十年かかって信心しとるけれども、おかげ頂いた、頂いたと云いよるけれども、それが本当の云うならおかげになっていないと云うことは、あなた合楽に行って何十年と信心しなさるけど、まあだあげん金に難儀をしておるじゃないかと云うことは、丁度立派なお風呂の中に汚いものがいっぱい沈んでいるではないかと云うことです。
云うならばです、本当の合楽のおかげ、云うならば極楽以上の極楽と云うものがお風呂に入って、ああ極楽と云う様な誰でも極楽と思うて來るのだけれども、それがね、汚いものが入っとっては誰でも二の足踏むのが当り前なんです。
そしたら次にまた頂いとるとが、ところが沢山の薪でどんどん炊いたところがね、もう中のものが綺麗になって下の方がスッキリしたお風呂になったと云うことである。だからそこでね、もう一家を挙げて信心しよるのだから、只信心しよりますと云うだけでなくて、一家を挙げて薪を集めて心を集めて熱を燃やせてと云うことである。
不思議にです、信心の熱を燃やしておると、どんな修行でも修行と思わんです。ああこれが自分のめぐりだと気が付いたら、それを取り払う勇気が生まれて來るです。
熱をかけてそれが沸いたところでは、もうその汚いものがなくて、立派なお風呂であった。これならば誰でも、ああ極楽極楽と云うて入るだろうと云うことであった。特に女は家の家老と云うことであるから、特に女の人の信心が本当に出来なければいけません。
それを神様は二日間続いてその方にお夢を下さってある訳である。お互いが本当に仏様、神様を目指しておるなら、目指しておる本心の玉を研くと云うことだけでない、やはり自分のめぐりと云うか、それに気が付かせて頂いたら、本気で改まらなければいけない。
本心の玉を研くと云うこと、改まると云うことと、云うなら自分の非を非と悟る。これではおかげ下さらん筈だと云うことを信心の熱情をもって取り除いて行くと云うところに、初めて成程合楽通と云うことが、どんなに素晴らしい事か、どういうおかげが頂かれるかと云う手本の様なものを、お互いが示して行けれるだけの信心を頂かなければ合楽で云っておる合楽示現活動も私は大したことは出来ないです。
私を見て下さい。私はかくおかげを頂いたと云うことがなからなければならない。
今日は私はこの御理解第二十七節をそのどんなに不正直なものでも、例えば仏様の様な人じゃとか神様の様な人じゃとか、とても神様仏様とかはなかなかでしょうけれども、それを目指すと云うことなんです。
金光様の信心は総生神を目指すということ。生神とはここに神が生まれると云うことであってと、信心させて頂いておると、今迄おかげと思いきらなかったことに、本当におかげと感じれれる様になる。もうそこに生神が誕生しておるのです。
本当に自分達がどうしてこげんふが悪いかとじゃろうかと思うておったものがです、そのふの悪いのじゃない、それが神愛と分かって來ると、そのきつい苦しいでしょうけれども、御礼の云えれる心が生まれて來る。即生神の心です。
そういう心をね、育って行く、そういう心を云うならば、四、六時中持てると云う願いを立てると云う金光教の信心ですから、総生神、総仏様を目指すということである。
云うならば、そうならなければおかげにならんと云うことでなくて、それに向かって進んで行くと云うこと。一歩一歩。
だから、神仏と云うても難儀が続く。だから、信心を頂く様になって本当にあの人は仏様じゃ神様と云う事になれば、今日私が皆さんに聞いて頂いた様なおかげの展開になってくる。その道程に於いてはです、願ってかえって、右と願えば左とする。左と願ってかえって右とする。かえって体中にかさが出来たとか、かえってお参りを初めて、のにも拘らず参ると云う気持ちになったら、かえって普通は変わらない病気でも起こると云った様な働きすらも、その内容としてはあるんだと云うことを聞いて頂いたですね。どうぞ。